2011年8月1日月曜日

邪馬台国探求紀行 倭国の範囲について



霧の彼方の邪馬台国
日本の歴史にも文献にも神話にも登場しない邪馬台国
だが 客観的に外国からは冷静に当時の日本の様子を詳細に 克明に生活の様子まで
記している。
だから、これは邪馬台国は存在したというのが真実だろうということになっている。

もう一度『魏誌 倭人伝』を読む

倭人在帯方東南大海之海中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通
三十國從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里

倭人は帯方の東南 大海の中に在り 山㠀に依りて國邑を爲す  舊と百餘國 漢の時朝見
する者あり
今 使譯の通じる所は三十國   郡より倭に至るには海岸に循いて水行し韓国を歴 
乍いは南し乍いは東し 其の北岸狗邪韓国に到ること七千餘里

このように冒頭書かれている  

倭人は帯方郡 今の韓国ソウルあたりか?      そこから東南の方向の大海の中にある 

 というのが常識として疑う人が少ない。ところが  別の読み方 として 倭人は帯方の

東南とその先大海の中に在り   ともとれる。漢文に区切りがないのがどちらにも意味が

執れる発端であって これは区別出来ないと思う。仮りに 朝鮮半島の北部から見て

半島南部と日本列島が倭人の地域だとしたら、今までの国境観念は覆ることだろう。 

海岸に従って半島を行くと 其の北岸 狗邪韓国に到るというのは、ここも即ち倭國で

あったことを意味していないだろうか。



其のというのは文章から推察すると倭国を指すのは確実だと思う。だから、倭国は

日本列島の九州をはじめとする地域のみならず、朝鮮半島の南部一帯を勢力範囲

としていたことが考えられるのである。

それは   後の即ち斉明天皇の指揮による百済応援、救済というのは660年頃の事だが、

半島に於ける倭国が危機を迎えた為、その隣の同盟国である百済を支援することが

倭国の危機を救うことになると判断したのだろう。そうでなければ 海峡を渡ってまで

わざわざ同盟国とはいえ、百済支援に立ち上がることもなかっただろう。そして

これは663年の白村江の戦いで敗れ、任那の日本府が滅んだことは正史にも登場している。

すなわち任那という朝鮮半島に於ける日本府、倭国の出先機関があつたことが明確で

ある以上、日本国、倭国の領土というものが半島南部にまで及んでいたことを意味する

決定的証拠である。

さらに時代は下ると 倭冠と称する族が東支那海一帯の大陸を荒らした歴史があったが、

これも未だに本拠地か゜どこだったのかは判然としない。一説には長崎県だったとか

諸説あり解明が待たれるが、解っているのは海洋民族であること。そうすると どこが

本拠地だったかは絞られよう。

倭は邪馬台国の、ヤマトといわれる連合国の一環だったのだろう。狗邪韓国とされる

今の釜山付近の北には 今でも日本語に近い言語の地域があるという。生活習慣も

なにもかも日本に似ているというから、あるいは任那日本府の残党かとも推察できる。

百済は一族日本に亡命し、現在も宮崎県などには百済一族の住む村がある。

くだらないとかくだらん とか言う日本語は、江戸時代に大阪から江戸に物資が下ら

なかったから、というが、自分の説では、本当は百済というのが原語ではないのかと 

今でも疑つている。

当時の倭というのは、漢字も自由に使用し、言語も日本語と朝鮮語の共通語を使用

していたのではないか。そして国家の範囲というものも、明確な今日の国境線はなく、

勢力の及ぶ範囲総てを倭と称していたのだろう。

この項続き

2011年7月7日木曜日

邪馬台国探求紀行 奴国の所在地

奴の国はどこにあったか という疑問は 一般には    福岡県春日市にある須久 岡本遺跡を指すだろう    そして もう一つ、博多区に那珂という地名の土地がある。ここはもう博多の真ん中に位置するくらい都会化の波が押し寄せて、今では完全な市街地と化している。かつて私も10年程度住んでいたが、何とそこは、かの奴国の中心とされる那珂八幡神社の前だった。この神社は市街地の中にぽつんと存在する高さにして10m程度だろうか、前方後円墳になっている。ところが円墳だけが残って 南にある筈の前方部は 住宅などで 昔に消滅しているのである。頂上部には 八幡神社が祀られていて、市街化の波から辛うじて免れた。基底部には 都市計画道路が掠めて通り 古墳の面影はない。
かようなところを依りもよって  住んでいたということは、何かしら邪馬台国との縁というものが感じられて仕方がない。
この場所は西に数百メートル行けば  那珂川があり、更に東に数百メートル行けば御笠川にさしかかる。平地にして水に困らず、当時は奴国として二万戸を数える国家だったとあるのも 頷けるのである。更に御笠川の対岸には 弥生時代の農耕遺跡で有名な比恵遺跡がある。ここからは農耕の跡、人の足跡も確認されていると聞く。農耕道具やモミの炭化したものなど さまざまに出土している。人が定住するのは  必ず食料が豊富な処と水が豊かな地を選んで暮らしていた。
奴は日本語でナ、ヌ、奴隷のドと発音する。地名も結局は日本語の発音が主体であり、漢字表記は後で付いたものと考えられる。
豊かな穀倉地帯を抱えた奴国は 当然栄えていたことだろう。現在も 博多区那珂、東那珂と広範囲な面積の博多区の中心になりつつある   国道三号線とバイパス、そして筑紫通りという、割と新しく作られた博多駅から南部に抜ける幹線道路が走る交通の要所でもあり各種の企業やマンションさまざまなものが雑居する一大ニュータウンとなっている。
また、春日市には奴国の丘とも呼ばれる須久岡本遺跡。ここは那珂川の上流に位置し、一帯はちょっとした丘陵地帯で、現在は遺跡公園ともなつている。昔は民家も存在したようだが、仮に自分の家の地下に弥生時代の甕棺などが埋まっていたら、誰しもあまりいい気持ちで住むことはできないだろう。そんな墓場でもある遺跡は、意識的に住宅がなくなったのか、または自然消滅したのか、いずれにしても墓の上にある家というのは、末代の弥栄は難しいだろう。それは埋葬された人々の魂が安眠できないからだと思う。
古代遺跡は夢とロマンを掻き立てるには違いないが、現実に人が住むとなるとなかなか難しいと思われる。
奴国の範囲というのは 実に広大な範囲にあったのではないだろうか    地名だけで総てを判断するのは早計に過ぎるが、現在の福岡市から春日市そして筑紫郡那珂川町も候補地に登るだろう。
那珂川町は地名もさることながら、いたるところに古代を彷彿とさせる史跡や無形文化財の磐戸神楽などもある謎に満ちた地で、新幹線博多車両基地のあるところとしても有名である。

奴国は大陸から倭国に来た場合の奥座敷的土地だろうか  後に盛んになる鴻櫨館は博多湾から すぐの位置にあり 大陸からの賓客をもてなしたり  大陸に向かう人々を接待したところとして知られる。ここは 後背地に太宰府を抱えていただけに  より一層の重要さを増した施設だったのだろう。
そして、奴国といえば なんといっても志賀島から発掘された金印だろうか
何故志賀島なのか いまだに歴史は解明されはいない。
しかしながら、これだけの広範囲な奴国は黎明期には重要な位置を占めていたことだけは疑がいようもない事実である

2011年6月19日日曜日

邪馬台国探求紀行 親魏倭王印発見②

韓国政府発表によると 竹島(韓国名 独島) で発見された金印は 親魏倭王印であり  漢字に混じり
ハングル文字が書かれていた  したがって 竹島が 韓国領土であるという根拠は定着した------というもの。
一方、日本政府は 卑弥呼が授けられた金印の親魏倭王印は邪馬台国の範囲である日本の領土であることが更に裏付けられたというもの。

歴史のロマンである筈の卑弥呼居城が   とんでもない方向に発展したものだとして  落胆している。

倭国の範囲がどの程度まて゜であったかは 明確ではない。
歴史に登場した限りでは、任那の日本府が朝鮮半島に於ける倭の範囲ではなかったかということであろう。   任那は唐と新羅の連合軍対百済、倭の連合軍の戦いであったと云ってもよく、結果は百済連合軍は敗退し、以後九州本土に撤退した上、更に唐からの追手に備えて防衛線を張った。
太宰府の守りには、水城という堤防を張り巡らし、内外には濠をめぐらして、更には 都府楼の最期の砦として後背地の四王寺山に籠城出来るように作られた。
また、半島からの最前線である対馬、壱岐の二島には防人を配し、烽火の施設わ備えた。
大陸からの侵攻が よほど恐怖であったらしく、今でもこれらの遺構は残されている。

倭という国家は、九州を中心に 朝鮮半島、中国四国地方まで延びる広範囲な国家ではなかったのだろうか。倭の連合体の中心に邪馬台国が位置し、統制を執っていただろうと思われる。魏誌倭人伝にその様子を垣間見ることができるのは何よりの証拠だろう。残念ながら日本側に邪馬台国に関する一切の記述、資料がないのが不思議である。
倭の動きは、この魏誌倭人伝に微細に記述されていて、魏使を出し朝献したものが絹や生口など、それに対して魏から金印の『親魏倭王』印を下賜された  とある。
この親魏倭王の金印こそ、何よりの卑弥呼の居城であったろうことは 想像に難くない。

今回、予想もできない 竹島での金印発見という 報には  今一つ信が置けない。
おそらく、本物の複製が此の島に何等かの事情で 持ち込まれたのだとしか考えられず、本物は福岡県の卑弥呼居城から発見されるものと 信じて疑いません。