韓国政府発表によると 竹島(韓国名 独島) で発見された金印は 親魏倭王印であり 漢字に混じり
ハングル文字が書かれていた したがって 竹島が 韓国領土であるという根拠は定着した------というもの。
一方、日本政府は 卑弥呼が授けられた金印の親魏倭王印は邪馬台国の範囲である日本の領土であることが更に裏付けられたというもの。
歴史のロマンである筈の卑弥呼居城が とんでもない方向に発展したものだとして 落胆している。
倭国の範囲がどの程度まて゜であったかは 明確ではない。
歴史に登場した限りでは、任那の日本府が朝鮮半島に於ける倭の範囲ではなかったかということであろう。 任那は唐と新羅の連合軍対百済、倭の連合軍の戦いであったと云ってもよく、結果は百済連合軍は敗退し、以後九州本土に撤退した上、更に唐からの追手に備えて防衛線を張った。
太宰府の守りには、水城という堤防を張り巡らし、内外には濠をめぐらして、更には 都府楼の最期の砦として後背地の四王寺山に籠城出来るように作られた。
また、半島からの最前線である対馬、壱岐の二島には防人を配し、烽火の施設わ備えた。
大陸からの侵攻が よほど恐怖であったらしく、今でもこれらの遺構は残されている。
倭という国家は、九州を中心に 朝鮮半島、中国四国地方まで延びる広範囲な国家ではなかったのだろうか。倭の連合体の中心に邪馬台国が位置し、統制を執っていただろうと思われる。魏誌倭人伝にその様子を垣間見ることができるのは何よりの証拠だろう。残念ながら日本側に邪馬台国に関する一切の記述、資料がないのが不思議である。
倭の動きは、この魏誌倭人伝に微細に記述されていて、魏使を出し朝献したものが絹や生口など、それに対して魏から金印の『親魏倭王』印を下賜された とある。
この親魏倭王の金印こそ、何よりの卑弥呼の居城であったろうことは 想像に難くない。
今回、予想もできない 竹島での金印発見という 報には 今一つ信が置けない。
おそらく、本物の複製が此の島に何等かの事情で 持ち込まれたのだとしか考えられず、本物は福岡県の卑弥呼居城から発見されるものと 信じて疑いません。
2011年6月19日日曜日
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