奴の国はどこにあったか という疑問は 一般には 福岡県春日市にある須久 岡本遺跡を指すだろう そして もう一つ、博多区に那珂という地名の土地がある。ここはもう博多の真ん中に位置するくらい都会化の波が押し寄せて、今では完全な市街地と化している。かつて私も10年程度住んでいたが、何とそこは、かの奴国の中心とされる那珂八幡神社の前だった。この神社は市街地の中にぽつんと存在する高さにして10m程度だろうか、前方後円墳になっている。ところが円墳だけが残って 南にある筈の前方部は 住宅などで 昔に消滅しているのである。頂上部には 八幡神社が祀られていて、市街化の波から辛うじて免れた。基底部には 都市計画道路が掠めて通り 古墳の面影はない。
かようなところを依りもよって 住んでいたということは、何かしら邪馬台国との縁というものが感じられて仕方がない。
この場所は西に数百メートル行けば 那珂川があり、更に東に数百メートル行けば御笠川にさしかかる。平地にして水に困らず、当時は奴国として二万戸を数える国家だったとあるのも 頷けるのである。更に御笠川の対岸には 弥生時代の農耕遺跡で有名な比恵遺跡がある。ここからは農耕の跡、人の足跡も確認されていると聞く。農耕道具やモミの炭化したものなど さまざまに出土している。人が定住するのは 必ず食料が豊富な処と水が豊かな地を選んで暮らしていた。
奴は日本語でナ、ヌ、奴隷のドと発音する。地名も結局は日本語の発音が主体であり、漢字表記は後で付いたものと考えられる。
豊かな穀倉地帯を抱えた奴国は 当然栄えていたことだろう。現在も 博多区那珂、東那珂と広範囲な面積の博多区の中心になりつつある 国道三号線とバイパス、そして筑紫通りという、割と新しく作られた博多駅から南部に抜ける幹線道路が走る交通の要所でもあり各種の企業やマンションさまざまなものが雑居する一大ニュータウンとなっている。
また、春日市には奴国の丘とも呼ばれる須久岡本遺跡。ここは那珂川の上流に位置し、一帯はちょっとした丘陵地帯で、現在は遺跡公園ともなつている。昔は民家も存在したようだが、仮に自分の家の地下に弥生時代の甕棺などが埋まっていたら、誰しもあまりいい気持ちで住むことはできないだろう。そんな墓場でもある遺跡は、意識的に住宅がなくなったのか、または自然消滅したのか、いずれにしても墓の上にある家というのは、末代の弥栄は難しいだろう。それは埋葬された人々の魂が安眠できないからだと思う。
古代遺跡は夢とロマンを掻き立てるには違いないが、現実に人が住むとなるとなかなか難しいと思われる。
奴国の範囲というのは 実に広大な範囲にあったのではないだろうか 地名だけで総てを判断するのは早計に過ぎるが、現在の福岡市から春日市そして筑紫郡那珂川町も候補地に登るだろう。
那珂川町は地名もさることながら、いたるところに古代を彷彿とさせる史跡や無形文化財の磐戸神楽などもある謎に満ちた地で、新幹線博多車両基地のあるところとしても有名である。
奴国は大陸から倭国に来た場合の奥座敷的土地だろうか 後に盛んになる鴻櫨館は博多湾から すぐの位置にあり 大陸からの賓客をもてなしたり 大陸に向かう人々を接待したところとして知られる。ここは 後背地に太宰府を抱えていただけに より一層の重要さを増した施設だったのだろう。
そして、奴国といえば なんといっても志賀島から発掘された金印だろうか
何故志賀島なのか いまだに歴史は解明されはいない。
しかしながら、これだけの広範囲な奴国は黎明期には重要な位置を占めていたことだけは疑がいようもない事実である
2011年7月7日木曜日
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